おたくで幸福を科学できるのか。

信仰とおたくを心のままに綴ります

ただの日記。

実はいっぱい下書きしては書いていないエントリがあるのですが、ふと、そんなに長く立派な文章を書こうなんて思わないで、素直に思ったことを書いたらいいんじゃないのかな。と思えたので、ぽつぽつと綴っています。

そもそも立派な文章なんて書けないのだから、とんだ自意識過剰なのである。

 

この一年ちょっと、あまりブログを更新してきませんでした。

忙しいのもあったのですが、いろいろ思うところもあって、自分の勉強不足を痛感したり。ちょっと世間に怒ったり。いろんなものに怒ったり。許せないなーって思ったり。悲しいなーって思ったり。いろんなことを思ったりしました。

そしてそのたびに、私が学んでいる幸福の科学の教え、「仏法真理」について考えました。

経文を読んだり、書籍を読んだり、先輩信者と話したり。あるいは古典文学に触れたり。オタク的に楽しいものに触れたり。

どうしたって、目線って狭くなっていってしまうのだなと日々感じます。家に帰って一日を振り返れば、「ああ、余計な一言だったな」とか。「明確に他人を傷つけてしまったわ」なんて思いもぷかぷか漂います。
でもその瞬間は気づけなくて。あるいは、気づいていてもそのまま進んじゃったりして。

そのことを悔やみ、嘆いても、案外きちんと素直になれません。自分の傲慢さってこういうところだなって思ったり。

 

私という人間は、どうしたって信仰と切り離すことはできないなぁと、強く思う一年間でした。まだ一年は終わっていないですが、ことあるごとに、信仰とともにありたいと思う自分に出会いました。

毎年1月のうちに自分の一年の理想のありかたを決めるのですが、今年は『信仰の優位』というものを自分で決めました。

私はとっても怠け者で、いわゆる“凡事徹底”とか、“自助努力”とか、そういうのがとにかく苦手です。どうしても自分の欲望を優先させてしまいます。その自覚だけはあったので、「眠くてもお祈りをする」とか「毎日反省できるように簡単な日記を書く」とか、そういうものを「面倒がらずにちゃんとやる」とか、凡事徹底レッスンもかねて。

結果は…………逃げるっていうのがよくわかりました(笑)

自分と向き合いたくないとき、分かってても逃げるんだなー!って。ベッドのなかでおふとんにくるまって、「今日は日記から逃げたな。この間も逃げたな」って思いながらすごします(笑)

なんだかんだ、断続的にちゃんと続いてはいるので多少褒めますが、もう一歩頑張ろうと思います。年末まではお休みの日をとらないようにしたいね!

 

そして、さっきちょろっと書いた自分と信仰を切り離すことができないという部分について。

信仰ってやっぱり信仰を持っていない人からしたらそりゃあ一種独特で、得体が知れなくて、なんだか怖いものに映るんだろうなーって。

信じるっていうところを、ぴょーいと飛び越えてしまった状態である信じ切っている私と、私を通してしか信仰を見ない友人との関係で、少しだけ悩んだ時期がありました。
その悩みは今でもすっきり解消されているわけではありませんが、やっぱり「信じる」っていうところを簡単に踏み越えている私と友人では、どうしたって何もかもが違うよなっていうことに気づいたり。そのことをちょっとだけ、受け入れられるようになったり。

責めるというと違うのですが、やっぱり私は自分の考えや価値観を語る時に、信仰を手放して考えるということは絶対にできない。それは思考を委ねているとかではなくて、優先すべき大切な価値だと思っているからだけれど、なかなか上手に伝わらないなぁって思ったり。それが悲しいなって思ったり。そもそも、それが「私」という人間の考えだから、決して言われたからそう思っていますだとか、言われたからそう言っていますとかではない。

あとはやっぱり“霊的人生観”ってすごいなぁって思ったり。けんかするために今世生まれてきて出会ったわけじゃないもんなって、そんな当たり前のことを今更腑に落としたり。今という時代は奇跡だなあって感動したり。そんな奇跡の一瞬に、私は自分を正しく精進できているかなぁと思ったり。頑張ろうって思ったり。

なんだかんだ、いろいろ信仰について思ったこともあったなって思い返したり。でも今、いろんなことを「信じる」ようになって思うのは、とても澄み切った気持ちでいられるなって。神様に愛されているなって実感できるようになったこともとても大きい。
それはとても幸せなことで、心から神様が大好きだと思えるのもありがたいことだなって思ったり。

たぶん神様を信じない人が見たら、お花畑すぎてヤバ…ってなるんだろうなって思うけど、それでも神様を信じる自分が好きだし、信じられる自分でよかったと思うし、神様を大好きだと思える自分でよかったと思います。

 

そんなことを、来年の「法シリーズ」を見て思ったりしました。テッテレー。
来年は「秘密の法」です。楽しみ。

 2020年である今年は「鋼鉄の法」の年でした。これも鋼鉄の法ですねっていう内容を書いてたんですが、出すことなく一年がめぐり…。

鋼鉄の法を初めて読んだときの印象メモに、「信仰の力強さ」「闇を切り裂く正義の一筋、人間の魂の柱」とあって。この一年間を通して、『信仰の優位』を意識しながら、このメモのようなことを少しはつかみ取れたかな?どうかな?って自己点検を残りの日数を使ってやっていきたいなーと思いました。