おたくで幸福を科学できるのか。

信仰とおたくを心のままに綴ります

神さまと信仰について 2018

「青銅の法」についてなど、書きたいことや書かねばならないのではということはたくさんありますが、何よりもまず、エル・カンターレ祭おめでとうございました!

2018年は「信仰の法」の年で、なかなか激動の一年間でした。思い返すとさまざまありますが、こうして一年のしめくくりとして主の御法話を拝聴する機会をいただけるということは本当にありがたく、幸せだなぁと思います。

しばらくブログを書く時間があいてしまったので、あらためていろんなことを文字にすることに臆病になっています。笑

いろんなことを書いては消し書いては消しを繰り返しているのですが、素直に最近感じたことなどを記憶と記録として書きたいなと思いました。

エル祭御法話を聴いて感じたこと

今回のご演題は「奇跡を起こす力」でした。先生の御法話は知的なお話や神秘的なお話の中にも面白いお話を挟んでくださるので好きです。(小並感)

「これだけでも覚えて帰っていってください」というような後半のまとめは、ギュっと大切なことがつめこまれていて、いつも感動します。今回は大好きな書籍でもある「愛から祈りへ」というワードが入っていたのも印象深かったです。

私がなぜ信仰しているのか

以前から、なぜ信仰しているのかをブログに書こうと思って準備しているのですが、なかなかうまくまとめられず、下書きを繰り返しています。

今回の御法話を拝聴して感じたことは、やはり尊い」ものは「美しい」し、「善」だ。と確信しているからだと思いました。シンプルに自分の思う信仰をまとめると、こういうことなのかなと感じます。

私は信仰を世界で一番美しいものだと思っています。

神にあこがれて、あこがれて、神に捧げるためにつくられた芸術はどれもため息が出るほど感動するし、魂がこもっているというか、うまく言えませんが作品そのものに立体的な輝きを感じますし、神秘的な息吹を感じます。信仰というものは激しいものであるがゆえに対立も起こりますが、神を愛しているということはやはり美しいことだと思うのです。

性善説の「神」と性悪説の「神」

最近ずっと悶々していたことがありました。ひとつ悶々したことがあると他のことにリソースをさけないためにブログも書けなかったんですが、今朝になって急に「そういうことなんだ」と気づけたことがあります。

ファンタジーにしろラノベにしろ、意外と「神(創造主)」が出てくる作品が日本にはたくさんあると思います。それは日本に「八百万の神」がいるからなのか、それとも「無神論が強い国だから」なのか「宗教に無関心な国」だからなのかは分かりませんが、「神を書くことを恐れない」というのはあると思います。

話を戻すと、とある影響力の強いクリエイターさんが描く「神」について引っかかっていました。

私はその方が長く好きで、その方の書く残酷だけれど人の優しさと愛が見える作風が特に気に入っていました。ただ、どうしても「神」に関して引っかかってしまうんです。テキストだけ読むと「そんなことないな…?」と感じる部分もあるし、いろんな方に意見を聞いてみても「そうだよね?」と自分でも納得するんですが、ずっと違和感がありました。

そして、やっと気づいたことは「世界観が性悪説だった」んです。

神が「人間を生み出した」「世界を生み出した」「法則を生み出した」というのはだいたい共通事項だと思います。

そして性悪説から神を組み立てると、神は人間に対して呆れているだろうし、怒りを覚えているだろうし、愚かだと思っているだろうし、滅んで当然だと感じるだろうと納得ができたんです。生み出した意味も価値もなにも感じられないのだから当たり前です。

逆に性善説から神を組み立てると、神は失敗も許すだろうし、どんな人も愛しているだろうし、反省と一定の裁きは与えたとしても報われるものがあるだろうと思えます。

どんなに愛や夢や希望、幸福や慈しみを描いていても世界観が性悪説だと読者もラスボスも「どうせ繰り返す」と思ってしまう。それに対して主人公が「繰り返しても構わない!」と返した場合、希望の度合いがかなり違ってくる気がするんです。

えげつない苦悩や困難や絶望を描いている話はスケールが大きくなるし、いろんな哲学も見える気がするし、考察のしがいもあったりするので深く見えることもありますが、これらの話って結局「破滅に向かう」しかゴールがないような気がします。

破滅を回避するためになんとかする。でも神は残酷で人間は愚かだ。となると無限ループになってしまって救いがどこにもなくなってしまうし、円環が続く限り希望もすり減っていってしまい、最終的には絶対に絶望に到達してしまう。

そのエンドを避ける場合人類補完計画みたいなことをするしかなくなってしまう気がします。最近形を変えた補完計画みたいなお話をよく見る気がするのも、そういうことなのかなと感じてしまいました。

そう考えると、異世界転生も「破滅」を回避するルートの一つなのかもしれませんね。転生世界のイレギュラーとなることによって、その世界の神にとって主人公は「創造物」から外れるのも面白さの一つなのかも。

…という、正直オチも何もない話です。しかし自分の中のもやもやにやっと「なるほど!」と思える答えが見つかったので、記録として残しておきます…。…エル祭に関係あったのだろうか。

「祈り」について

「祈り」というと、確かマザーテレサの霊言だったと思いますが、「祈りは神にかける電話」というようなことを仰っていました。(違ったら本当にごめんなさい)この時に、「祈り」という行為の尊さや美しさを改めて感じました。

書籍「愛から祈りへ」は主に祈りの言葉としての詩編を収録した書籍ですが、各章ごとに「愛」とは何かということをさまざまな角度から解説されています。とても面白いです。 

愛から祈りへ―よみがえるヘルメスの光 (R BOOKS)
 

 第5章は「愛から祈りへ」という章題がつけられており、ここで「愛から祈りへ」といいう意味についても説かれています。かんたんに言うと、「愛という実践の行為をおこない、自らがやれるだけのことをやり、果たせるだけの使命を果たしてなお祈ることがあるならば祈ってみてください。」と語られています。そして、けっして自分本位に、自分が愛を得たいがための祈りであってはならないということが説かれています。

エル祭後、ここを読み返して、あらためてそういう気持ちを忘れない透明な心を大切にしていきたいと思いました。

 

という感じでした!

ずっと引っかかっていたもやもやがやっと晴れたので本当にすっきりしました。

そういった作品を面白いと感じる気持ちももちろんわかりますし、愛夢希望!で構成されている物語が気楽に見えてしまう気持ちもわかります。今回やっともやもやする原因が分かったので、対策も立てられるようになりました。

あまり引っ張られすぎず、バランス感覚よく、楽しみたいと思います。