おたくで幸福を科学できるのか。

信仰とおたくを心のままに綴ります

これからもずっとその笑顔で

 

最近まったくブログをアップすることがなくなってしまい、あえて私なんかの気持ちを文字にしてもなぁと思ったりすることもあったりしていたのですが、ちょっとだけ頑張ってみようかなと思い、またはじめようと思います。そもそも最初からずっとお気持ち文をしたためているブログや。

ただ、「ここを通過しなきゃ進めない」ものがひとつあるので、少し時間が経ってしまいましたが、三浦春馬くんのことを書きたいと思います。

 

 

三浦春馬くんの突然の訃報が日本中を駆け巡ってしばらく経ちました。個人的にも特別に応援している役者さんの一人だったので、自分の感情の整理としてぽつぽつと綴っていけたらと思いこのエントリを書いています。

年齢が近い人が亡くなるのはかなしい。若い人が亡くなるのはかなしい。才能あふれる人が亡くなるのはかなしい。人の死は、とてもかなしい出来事だと思う。

平凡な一般市民として生活している私から見たら、春馬は若く才能あふれていて、お芝居もうまく、さわやかで、この世界の汚いものから隔離されているかのような清々しさを纏っている人だったから、自殺という報道を見たときは、職場だったけれど耐えきれずトイレに駆け込んで泣いてしまった。

自殺が本当であったとしたならば、その理由を他人が根掘り葉掘りすることではないし、別に説明責任が必要なことでも何でもないし、説明して伝わるのであれば、このような選択はしていないかもしれないので何とも言えないし、何も言えない。

ただただ、才能あふれる若者がこの世界からいなくなってしまったという事実が悲しくてやるせない。

もっともっといろいろなお芝居が見たかった。もっといろいろなミュージカルに出てほしかった。心を明るく照らすさわやかな笑顔をずっと見ていたかった。もっとたくさんの役を見たかった。年を重ねて、年齢ごとに成長して味わいが出てくるお芝居を楽しみにしたかった。

これから先にあったかもしれない未来がぱったりとなくなってしまったことが、とても悲しい。きっとどんどん役者として素敵になっていくであろう彼を見るのは、とてもぜいたくな喜びだったのだと、改めて感じます。

 

『私にとっての三浦春馬』の話をすると、彼は「個人として好き」というよりも「チームとして好き」という感情がちょっと勝る役者さんでした。どういうことかというと、アミューズ若手俳優たちの集まり「ハンサム」の三浦春馬世代が好きなのです。

佐藤健賀来賢人など、テレビで活躍する春馬と同世代の彼ら。私が特に好きなのは主にミュージカルなどの舞台で活躍するメンバーでしたが、春馬世代のハンサムは私の青春でした。

ひとつのかたまりとした、あの若手俳優たちのエネルギーが大好きだった。彼らの舞台を見るのが、ハンサムライブで楽しそうに歌う彼らが、コントをする彼らが、あの会場で笑い合うアミューズを大好きなみんなとの時間が、本当に大好きだった。

春馬たちは年齢が近いのもあり、彼らが頑張っている姿は特別に胸に響きましたし、彼らを応援していると誇らしい気持ちになりました。同じ世代で頑張っている人がいる。つらい時にはハンサムの曲を何度も聴いたし、まわりの人たちにもハンサムって素晴らしいんだよと伝えてまわりました。

永遠に色あせない、私にとっての愛しい青春の記憶です。
この記憶が今でも私を頑張らせてくれているし、大きなエネルギー源です。その中心にいたのが、春馬でした。

 

最初はあまりのことに受け止めきれず、何も手がつかない状態でしたが、しばらくたち、私にできることはやっぱり冥福をお祈りすることだと思いました。

心の底から、死後の魂が安らかで、喜びにあふれる世界に還ることをお祈りしたいと思います。

感謝と、追悼と、愛を込めた祈りは、きっと生きている時の何倍、何十倍、何百倍もまっすぐに届いてくれるはずだから。

 

人の死がどうしてこんなに悲しいのかって考えたときに、やっぱり命というものは、すべて等しく尊いものなのだと感じます。なぜ尊いと感じるのかは、やはり神様から与えられているものだからだと。

とても大切な人が亡くなった時に涙が出るのだって、好きな人がいなくなってしまった自分がかわいそうで悲しくて泣くわけじゃない。やっぱり、自分の目で見たその人の人生の美しさを思って涙する。

その人の人生を通して、自分はどれだけ素敵なものを与えられていたのか。

三浦春馬を通して、私はこんなに幸せな青春時代をもらって、一生胸に輝き続ける大切な思い出をもらった。きっとあの時の、あの夏の舞台の思い出が、あの冬のハンサムライブの思い出が、どんな時でも落ち込んだ私を奮い立たせてくれる。そういう光のひとかけをもらった。

私も一人でも多くの人に光を灯していけるような魂の煌めきを持ちたいと思います。

 

最後に、自殺者の死後について。

自殺が事実かどうかはさておき、神様からいただいた命を自ら断ってしまうことは悲しいことですし、絶対にやってはいけないことです。宗教で人間の生命とは何かを学んでいる人間として、どうしてもここを気にしなければいけないと考えます。

人は永遠に生き続ける魂を肉体に宿して、転生輪廻している存在です。だから、肉体が死んでも魂は死なずに生き続けている。死後は心がすべての行き先を決める。だから、天国に通じるような心を持たなければ天国へは還れない。

どんな人のもとにも死は平等にやってくる。そしてそれは、いったいいつ訪れるのか分からない。誰一人死から逃れることはできないからこそ、与えられている命を精一杯富ませていきたいと感じました。

多くの人に還元し、明るい気持ちを振りまける自分でいられるよう努力したいし、神の御心にかなった人間でありたいと思うし、神様を愛する自分でいたい。

改めて、信仰者としての生き方についても考えるきっかけとなりました。

今はとてもつらく厳しい時代で、諸行無常会者定離といっても、そんなに簡単に割り切れるものではないなぁと日々感じます。生老病死が真理だと知っていても、感情が置いてけぼりになることもあります。それでも、きちんと前を向いて歩いていける自分でいたいですね。